( 『人生ノート』 美輪明宏 著 新潮新書 P.139より引用)
世の中には2種類の人がいます。1つは、「困ったときに助けてくれる人を必要としている人」、そしてもう1つは、「誰かを助けることで、必要とされている実感をもちたい人」です。この相対的な2種類の人たちが存在することで、世の中が循環しています。
サービスを提供する側は、それを受け取ってくれる人を必要としています。
全員が提供する側にまわってしまうと、その流れが成り立たなくなりますよね。
そして、その役割は時と場合によって、入れ替わります。常に片方の立場だけ、という人はいないはずです。だからいい意味で、持ちつ持たれつ、お互い様なんだと思うのです。
このことに気づくと、人の親切な好意は、遠慮して断るのではなく、ありがたくちゃんと受け止めてあげることも大切だな、って思いませんか。
たとえば、レストランに行くと、食事を終えてレジのところでサイフを出してお互いに譲らない数人のグループの光景を見ることがあります。あれは、お互いに遠慮して「私が出すから」「いえいえ、何言ってるの!私が出すわよ」と譲らないわけですが、「必要とされている実感をもちたい」人もいる、と思うと、その場はありがたくご馳走になっても良いと思いませんか?(おごってもらうための、都合のいい解釈とも言われそうですが・・・)
あるいは、成人した子供が親に「食事をご馳走するよ」と言うと、「子供に支払わせるなんて」と抵抗感を持つ親も少なくないようです。きっと、いくら大人になったとは言え、親にとってはいつまでも子供なので、与えることはあっても、受け取ることに違和感を覚えるのでしょう。でも見方を変えると、その子供は「親に必要とされている実感をもちたい」のかも知れません。「ありがとう」と感謝して受け取ることも、あり、なのでは?